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2020.07.02

ボラーニョふたたび

ロベルト・ボラーニョ『第三帝国』(白水社・2016年発行)の訳者あとがきにて、この本を翻訳された柳原孝敦さんが、拙作『遠いデュエット』について書いてくださいました。
ボラーニョへのラブレターのような『遠いデュエット』について、ボラーニョの翻訳をされた方が、ボラーニョの本のあとがきに書いてくださるという奇跡的なできごとでした。
自分にとっては、これが人生のピークになってしまうのではないかと、
あまりに畏れ多すぎて、4年間自分の心に大切にしまい込み、今までちゃんとした形でお知らせすることができていませんでした。
柳原さん、本当にありがとうございます。
今、またボラーニョについての新しい作品をつくっているところでもあり、また自分もあれから少し成長したような気もするので、ようやくこの一大事を声を大にして喜んでもいいような気がしてきました。
ぜひ『第三帝国』をお手にとって読んでいただけたらと思います。
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b227448.html

一緒に写っているのは、今読んでいる柳原さんの著書『テクストとしての都市 メキシコDF』です。
メキシコ市にまつわる様々なテクストや映画を引用しながら、都市の風景と歴史を読み解くというもので、1968年にトラテロルコ広場で警察が学生デモ隊を虐殺した事件についても書かれています。香港のひどい状況がある今このタイミングで読めて、考えさせられました。これについては今一言では言えないので、これからも考え続けます。

ボラーニョについての新作は、ちょっと方向性は違うものですが、秋頃に発表するために制作中です。また追ってお知らせさせてください。

2019.01.10

2019年のご挨拶

すっかり日にちが経ってしまいましたが、新年おめでとうございます!
昨年は大変お世話になりました。

年の瀬から年明けにかけて、Laura Poitrasという監督のドキュメンタリーを2本見て、(CitizenfourとRisk、それぞれスノーデンとジュリアン・アサンジについてのドキュメンタリー)すごいものを作る人がいるもんだ、と感銘を受けました。
カメラの前で起こっていることの凄まじさはもちろんあるんだけれども、それを切り取るLauraの瞬間瞬間の直感の研ぎ澄まされ方がすごかったです。
私も2018年はドキュメンタリーを撮っていたので、このシーンもちゃんと撮るんだとか、このアングルも抑えてるんだとか、驚きの連続でした。そして映像がきれい。何のカメラを使っているんだろう・・・あんな緊迫した状況で、自分だったらあんなに完璧な構図をとれるだろうか。手ブレもない。
技術的なことばかり言ってしまったけれど、Citizenfourでは、スノーデンがカメラの目の前でアメリカ国家を敵に回すような告発をするという報道的な題材を、あのように美学的な映画にまとめ上げられたことがすごいことだと思いました。始まり方がとても美しい。ポンヌフの恋人の最初のシーンをちょっと思い出してしまいました。
Citizenfourでは出てくる人たちがみんな高潔で、こんなに素晴らしくて頭のいい人たちがいるんだと思わせられました。一方Riskはそれとは全く違って、出てくる人たちがみんな癖が強く、善と悪のグラデーションの中で人生をかけた綱渡りをしている感じでした。ああ、例えが陳腐だなあ。その点では、Riskの方が現在の状況からするとリアリティーを感じて、底知れないものを感じました。自分が今生きているこの世界、すごいことになってるなと。フィクションよりもフィクションっぽいし、先が読めなさすぎるし、もはや何が悪で何が善なのかまったく分からない。ジュリアン・アサンジが恐ろしいことを言いながらも、微笑みを絶やさず、その笑顔が可愛いなと思わされてしまうところも、何なのでしょうか。そしてトランプが大統領選を勝利したときのドヤ顔のクローズアップは、曲者の面構えが並ぶこの映画の中でも一際強くて、「顔、つよっ」と思ってしまいました。私は最近人を顔で判断するところがあります。自分の中では皮肉的にルッキズムと呼んでいるのですが、人の顔にはやはり何かしら現れています。トランプの顔は、もう実在の人の顔ではなくて少年ジャンプの主人公が戦う悪の親玉みたいでした。

とにかくLauraが映し出す現在は、私の知らなかった世界でした。これらの映画が公開されてから数年経っているので、私が今までボケッとしすぎていたのですが、ともかく2019年を迎えるにあたってこれを見ることができてよかったです。そしてこれを撮ったのが女性だということにも勇気づけられました。

1人でできることには限界がある、なんて泣き言を言っていた私ですが、Lauraが1人で撮影に赴くことを想像するとそんなことを言っていた自分を張り倒したくなります。2019年もやれることをやります。
12月後半は1年の疲れが出て、バッテリー切れのコードレス掃除機のように使い物にならなかった私でしたが、この年末年始で電源チャージされました。
今年も皆様が健やかな1年を過ごされることを願っています。

P.S. Laura Poitras監督の「My Country, My Country」という映画が見たくて堪らないのですが日本公開されていなかったみたいで、見る手段が見つかりません。誰かソフト持っていませんか・・・

2017.12.31

今年もお世話になりました

2017年もあと1日で終わりだ。今日はSさんとJさんとMoMAでアントニオーニのドキュメンタリーを観てから韓国料理を食べて、メゾン・カイザーで4時間もお茶をした。アピチャッポン、レオス・カラックス、ホン・サンス、デヴィッド・リンチ、ラース・フォン・トリアー、ポール・トーマス・アンダーソン、クリストファー・ノーラン、是枝 裕和…たくさんの映画の話、そしてヒト・スタヤル、カミーユ・アンロ、フランシス・スタークなどのアートの話をした。(今書いていて気がついたけれど、すべての映画監督が男性で、すべてのビデオアーティストが女性であるのは単なる偶然である)とても楽しかった。年の瀬に1人で過ごすことにならなくてよかった。

昨日までワシントンDCに3日いて、National Air and Space MuseumとかHirshhornとか良い展示を観ることができたけれど、DCの街自体は好きになれず、とても寒かったのもあり、3日目は辛かった。特にいいかげん1人でいることに疲れてしまった。

この1年ニューヨークにいて思ったのは、アートに中心地なんてないってことだ。もちろん数え切れないほどの驚くほどすばらしい作品に出会い、衝撃を受けた。今思い返してニューヨークに来て観れて良かったと思うものは、アニエス・ヴァルダの映画いくつか、ウィリアム・ケントリッジの生のパフォーマンスと初期作品を見返せたこと、Meriem BannaniのThe Kitchenでの展示。あとはUrban Outfittersで扱っているVagabondの靴が自分の好みどんぴしゃであるとわかったこと。

ニューヨークにいれば、自分が何かを見たいと思えば、たいていそれにアクセスできる。それはすばらしいことだ。
でも一方でアーティストとしては、やはり自分が日本で何をやってきたかによって値踏みされるし、結局ニューヨークにいようが日本にいようが変わらない、というか日本で制作・発表したほうが仕事の上ではアドバンテージがあるのかもしれない。結局みんなキャリアで人を見がちだ。

ケントリッジのあのアニメーションの真に独創的で力強い表現について考えてしまう。『ヨハネスブルグ、パリの次にすばらしい街』というタイトルのあのアニメーション、昔見たときと今見たときの印象がまったく違った。昔見たときも感動して涙を流したけれど、昨日見たときは心の底の感情を鷲掴みにされた。もう泣くことはなかったけれど、それは静かな感情だった。鏡の中の自分を見ているような。ケントリッジは34才のときにあれを作ったらしい。自分は33才で、年齢がどこまで関係あるのかわからないけれど、これは私の物語だと思った。諦め、他者と繋がりたいという欲望、孤独、無力感、止まらない妄想。
禿げた中年のおっさん、しかも裸のおっさんはなぜか私のアルターエゴであるかのように感じてしまった。欲望が生まれたときにそこに水たまりが発生し、魚がぴちゃぴちゃはねるあの美しさ。

来年の私は何をしているだろう。
作品を作りたい。ヴァルダのLions Loveみたいに自由で、ケントリッジのような深い叙情性を持った何かが作れたら最高だ。なにか自由になりたい。なにから自由になりたいんだろう。
あと英語の本をもっと読もう。これは自分へのタスク。

最近よく聴いているのはRihannaの『Anti』とChicano BatmanとMoondogでMoondogのチャーリー・パーカーに捧げた曲が素晴らしくて衝撃を受け、今それについて何か作りたいと思っている。Moondogも本物のアーティストだ。RihannaのConsiderationとSame Ol’ Mistakesも大好きだ。Rihannaは良い。
あとニューヨークに来て良かったのは、音楽がまた自分にとって大切になったこと、そして新しい音楽を探索しはじめたこと。ベタだけど今までちゃんと聴いていなかったBeyonceとLady Gagaが好きになり、The Slitsの『Cut』を今さら聴いて感動し、Pixiesを聴きながら料理し、Brian Enoの『Thursday Afternoon』を聴きながらスタジオまでの40分の道のりを歩き、Suicideを聴きながら家に帰ってきた。BBC Radioもたくさん聴いた。ティーンエイジャーみたいに気に入った曲を何度も何度も何度も聴きたくなる。むさぼり聴く感じだ。ここ5年ほどの音楽へのクールな態度は消えた。音楽と若さはたぶん何か関係がある。

完全なるモノローグになってしまいましたが、こんな感じで2017年を過ごしていました。周りの人に助けられて生き延びられました。本当に感謝です。
2018年が皆様にとってすばらしい年になりますように。実り多くなくても、ふとした美しい瞬間に出会えますように。

2017.03.22

Residency Unlimitedでの上映会

『遠いデュエット』の上映をしました。
今回はレジデンスの滞在アーティストに向けた上映で、たくさんフィードバックをもらいました。
4月18日にパブリックイベントとしてもう一度上映を行います。
もう少しで詳細が発表になります。
ニューヨークにいらっしゃる方、ぜひ遊びに来てください!
http://residencyunlimited.org/process/film-screening-maiko-jinushi-and-dimitar-shopov/

2017.02.13

懐いた猫と、死んでしまったかもしれない猫

空からかき氷状のものが降ってきている。
ニューヨークに住み始めて10日が経った。
まだ10日しか経っていないとは思えないほど数々のトラブルや、幸運に見舞われて、私はいまブルックリンのウィリアムズバーグというエリアにあるアパートの一室でこの文章を書いている。
すぐそばのベッドには黒猫が寝ている。
私が遊んでやらないので不貞腐れてそっぽを向いているけど、こっちに関心があるのがありありと伝わってくる。
まだここに住んで3日しか経っていないのに、彼はなぜだか私のことが気に入ったみたいだ。
頭をこすりつけてきて、始終べったりくっついてくる。
夜もベッドで一緒に寝ている。
私がiPhoneをいじっていると嫉妬してiPhoneめがけて頭突きしてくる。
この直球の愛情表現にはちょっと戸惑ってしまう。
私はいままで猫と一緒に暮らしたことがないのだ。

このアパートに住むことができたのは幸運だった。
ニューヨークは家賃が異常に高くて、ほとんどの人がルームシェアをしている。
どんな人が住んでいるのか、家の周りはどんな環境なのか実際に見て決めたかったので、日本で決めずにこちらに来てからアパート探しをした。
ニューヨークで部屋探しをするのは地元の人にとっても一大事らしい。
なにしろたくさんの人がニューヨークに住みたがっていて、部屋の数には限りがある。
私はレジデンスの人から紹介されたアーティストやデザイナーなどクリエイティブ系の職業に携わっている人が、家やアトリエの賃貸情報をシェアするメーリングリストに登録して、ここを見つけた。
ルームメイト(家主さん)はバーバラという名前の40代くらいのおだやかなドイツ人女性だ。
彼女はアートブックの出版社を少人数で運営している編集者で、独立する前、ある美術の財団で長いこと働いていたらしい。
(プライバシーに関わるかもしれないので、一応名前は伏せておく。ミニマルアートのすばらしいコレクションがある財団だ。)
私はその財団のコレクションの大ファンだったので、それを知ったとき興奮した。
彼女はウォルター・デ・マリアと一緒に本を作ったときの話を少ししてくれた。
何を隠そうウォルター・デ・マリアは私がニューヨークに来たかった理由のひとつである。
マリアは若いころニューヨークで音楽やパフォーマンスなど、後期の作品とは少し違ったことをしていたのだ。
そしてニューヨークには、あるビルディングの一室に恒久設置されているマリアのユニークな作品がある。(早く行かないと!)

アパートはこじんまりしているけれど、家具はどれもセンスが良く、居心地が良い。
私のベッドルームにはクイーンサイズのベッドと机と椅子、洋服ダンス、本棚があり、そこにはまだ読んだことのないボラーニョの”Last Evenings on Earth”と”Amulet”があった。
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」やフェルナンド・ペソアの詩集もある。
私はなんだかずっと前からここにいたみたいな気分になった。
窓からはマンハッタンの高層ビル群と、ときどきグラフィティが描かれているウィリアムズバーグのレンガ色の建物が見渡せる。
このアパートは6階建てで、この辺りでは一番背の高い建物なのだ。

バーバラは2匹の猫を飼っていて、出張に行くまえに私に長いインストラクションを手渡した。
そこには猫にとって毒になる食べ物(ときにはそれは食べ物ですらなかったりするのだが、彼らは食べちゃうのだ。例えばロウソクとか輪ゴムとか)や、エサをあげるタイミング、緊急事態が起こったらどうしたら良いかということが書かれてあった。
私はそれを注意深く読んだ。
もしバーバラの出張中、猫たちに何かが起こったら、バーバラはどうにかなってしまうだろう!
私は細心の注意を払うことにした。
前のルームメイトがチョコレートケーキを放置して、猫たちがそれを食べて死にそうになった話を聞かされたので、チョコレートに対する食欲が失われたくらいだ。

とはいえ、私は猫と暮らせて嬉しい。
オス猫の名前はGuy、メス猫の名前はMisterという。
なんでメスなのにMisterかというと、鼻の下に紳士のひげみたいな白い模様があるからだという。
Misterはシャイで、私がいると隠れてしまう。
私の部屋にいつも居座っているのはGuyである。
私はこのところ風邪のせいで体調が悪くて心細かったので、Guyがそばにいてくれてありがたかった。
新しいボーイフレンドができたような、でも腕枕をせがんだり、仕事していると「ねえねえ」と肩を叩いてくるあたり甘えん坊のガールフレンドのような、不思議な相棒である。

一昨日は大雪だった。
次の日の朝、窓を開けたら外は一面白かった。
周りの建物は低いので、屋上に雪が積もっているのが見える。
そこに鮮烈な赤色が飛び散っていた。
クリムソンレーキみたいな変な赤色である。
日常生活であんまり目にすることのない赤…。
赤は放射状に飛び散っていて、真ん中に黒っぽい塊があった。
何かが上から落ちて、屋上に激突し、血が飛び散っているようにも見えた。
しばらくそれを凝視したあと、黒っぽい塊は猫なんじゃないかという気がしてきた。
形やサイズ感がそんな感じなのである。
もしそうだとしたら、建物の位置関係からして、私たちが住んでいるこのアパートのどこかの部屋から落ちたとしか考えられない。
あやまって落ちた?
それとも誰かが故意に落とした?

私はバーバラにこのことを言いたかった。
でも彼女はこれから出張にでかけるところだし、猫好きの彼女にこんなシーンを見せるのは残酷だろう。
それに猫じゃないかもしれない。鳥かもしれないし、生き物ですらないのかもしれない。
私はしばらくその光景を見つめ、窓を閉めた。ベッドにはGuyがいる。

昼過ぎに買い物に出かけた。
帰ってくるとアパートの玄関で住人らしき2人組が管理人さんにすごい剣幕でまくし立てている。
「猫がどうのこうの…」とか「あの人はいい人だけど…」とかいうようなフレーズが聞こえてくる。
例のことについて言っているのだろうか。
それとも単に隣の家の猫がうるさいとクレームをつけているのだろうか。
私は横を通り抜けるために、「Hello」と声をかけた。
管理人さんは笑顔で「How are you?」と聞いてきたので、私は「Good. Thank you.」と言い、「How are you?」と聞き返そうと管理人さんの顔を見たら、彼はすでにこちらを見ておらず、2人組との話に戻っていた。

私はそのままその場を通り過ぎた。

2017.01.17

ロベルト・ボラーニョ『第三帝国』

白水社から発売されているロベルト・ボラーニョの長編小説『第三帝国』の翻訳者である柳原孝敦さんが、訳者あとがきに『遠いデュエット』のことを書いてくださいました。去年の7月に発売された本なので、発売前に白水社さんから本を送っていただいてそのことを知りました。ボラーニョの本に、ボラーニョについてのラブレターのようなものである『遠いデュエット』のことが載るなんて…と、信じられない気持ちで、嬉しすぎて、うまく喜びを消化できず、あまり多くの人にはそのことを言えませんでした。人生でこんなに素敵なことが起こってしまうなんて、自分はもうすぐ死んじゃうんじゃないかと思ったくらいです。

2016年後半はなんだか鬱々としていて、自分の作品について考え込んでいたのですが、底まで行ったのか今はカラッとしました。

先日まで夫を訪ねてパリに行っていたのですが、夫はブラジル人の詩人コミュニティと仲良くなっていて、私も詩の朗読会に参加させてもらいました。そこではブラジル、チリ、フランス、イタリア、オランダ、アメリカ、セルビア、ポルトガル、そして日本語の詩の朗読が行われました。ボラーニョの小説が目の前で広がっている!と思いました。その中でも特に素晴らしかったのが、チリ出身の女性の詩人Vivianaの朗読でした。ボラーニョの小説では女性の詩人たちが印象的な役割を演じています。私はVivianaを見て、ボラーニョの登場人物みたいだと思って、とても強く美しいと思いました。『遠いデュエット』はスペインでのボラーニョをテーマにした作品ですが、いつかメキシコ、チリで続編を撮りたいです。そしてこれから行くニューヨークがその足がかりになることを祈っています。

ボラーニョはすばらしい作家です。『第三帝国』ぜひ買って読んでください!!!!

2017.01.17

お知らせ

お知らせが2つあります。

今月発売の美術手帖2月号にグザヴィエ・ドラン監督の新作『たかが世界の終わり』の紹介文を書きました。お手にとっていただけたら嬉しいです。
http://www.bijutsu.press/books/magazine/bt/

2月からポーラ美術振興財団在外研究員として1年間ニューヨークに滞在します。すでにお伝えしていた人には会うたびに「まだいるの?」と聞かれて肩身の狭い思いをしていましたが、ようやく出発です。今年は初心に返ってたくさん実験をしたいです。
モットーはSTAY PUNKです。

2017.01.11

2017年1月10日(火)21:12

2017年1月10日(火)21:12

パリで最後から2日目の夜。夫の誕生日。主役のはずの夫は今日だけの臨時のアルバイトのためにいない。私たちはこの2日間ノロウィルスにやられて、寝込んでいた。日曜日にSさんと奥さんのIさんと一緒にパリ郊外の美術館に行って、フィッシュリ&ヴァイスの素晴らしい「正しい方向」を観たあと、パンダくんと同じように次第に気持ち悪くなってきて、乗り換え駅のNationのゴミ箱に吐いた。昼に食べた美術館近くのマラソン大会の屋台で売っていたレバーのソーセージとフライドポテトの味がそのまました。ソーセージにあたったのか、映像の中でパンダくんとネズミくんが可愛がっていたブタを丸焼きにして食べたので、そのせいで気持ちが悪くなったんだと思った。なんとか家に帰り着く頃には寒気がひどくて、どんどん熱が高くなった。38度5分まで上がった。夫は湯たんぽを作ってくれたり、蒸しタオルを首に当ててくれたり看病してくれたけれど、夜には夫が唸りだした。とても苦しそうで、助けてあげたかったけど、私も立ちあがると吐きそうになってあまり何もしてあげられなかった。次の日に2人で病院に行くと、金曜日に食べた牡蠣が原因でノロウィルスにかかったらしいことがわかった。
夫はまだ頭が痛いと言って、鎮痛剤を飲んでアルバイトに行った。彼が家を出る前に、私は味噌のおかゆを作って、一緒に食べた。美味しかった。私は明後日の昼にパリを発つのだから、そろそろパッキングをしないといけないと思って、夫がいないうちにだいたいのパッキングをし、部屋の掃除をした。この2日のうちに部屋は荒れ放題だった。私たちはそこまで綺麗好きとは言えないけれど、また半年間お別れなのに、こんなに汚い部屋で締めくくりたくない。パリで過ごしたこの1ヶ月はかけがえがない。夫はこれは新婚旅行なのだから、と言った。本当にそうだ。私たちは仲良く、幸せだった。楽しく遊んだ。
パリでは毎日美術館を見て、ヘミングウェイの「移動祝祭日」と山田宏一の「友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」を読み、映画を見た。映画はグザヴィエ・ドランの「たかが世界の終わり」「わたしはロランス」、ポール・トーマス・アンダーソンの「インヒアレント・ヴァイス」、溝口の「残菊物語」、タランティーノの「パルプ・フィクション」、ラース・フォン・トリアーの「イディオッツ」、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」を見た。
自分の作品については悩み、自信をなくしたけど、同時に美術館で作品を見ているとアイデアが次々に浮かんだ。自分は美術館がとても好きなんだということがあらためて分かった。作品が素晴しかろうとそうでもなかろうと、そこに人が作った何かしらがあり、それを眺めていると心が落ち着いた。

日本に帰ったらニューヨークに行く準備をする。ニューヨークに行く。私は何かを作る。

ここの窓から見えるセーヌ川はとても綺麗で、この先二度とこんな綺麗なセーヌを目の前に朝起きたり、夜音楽を聴きながらダンスしたりすることはできないだろう。それを思うととても寂しいけれど、この1ヶ月は人生からのプレゼントだったのだ。

私はまた生き返ったみたいに色々チャレンジしようと思う。

2017.01.11

2016年12月10日(土)22:20

2016年12月10日(土)22:20

私は今、カタール航空の飛行機に乗っている。ドーハで乗り継ぎをし、夫がいるパリに向かう。夫と会うのは3ヶ月ぶりだ。空港まで迎えに来て、と頼んだら、彼は空港まで迎えに来てくれるという。そんなの当たり前だと思うかもしれないけど、私はそのことに対して若干の驚きとともに感謝をしている。私は遠慮深いところがあるのだ。彼が飛行機の便名と、何時にドーハを出発するのか知りたいというので、暗号みたいなEチケットの写真をメールした。これを解読できるのだろうか。彼は全然問題ないという。何があるかわからないから情報は全部知っておいたほうがいいんだ、という。カタールで何かあったときのために、と。カタールで何かあるなんて縁起でもないこと言わないでよと言った。心配しなくてもきっと時間通りに着くでしょ、と答える。
2016年はもうすぐ終わる。去年の年末に2016年の抱負を考えただろうか? 私はたしか、「英語の上達」と「海外に行く」というのを抱負にしたような気がする。「海外に行く」なんて16才みたいな願望だけど、そうなのだ。 日本から出て、別の環境に身を置くことを去年の私はものすごく欲していたのだ。
今年はタイとアメリカに行き、これからフランスに行く。「海外に行く」という抱負は実現した。

来年の抱負について考えよう。私はなんとなく文章を書き始めたいと思った。それを思いついたのは新宿のデパートのブラックフォーマル売場(喪服を売っている場所)でバイトしている最中、カウンターで、ぼんやりと客のまばらな店内を眺めていたときだった。視界の右側にはお歳暮の催事コーナーがあって、視界の左側には上下黒のツーピースのいくつかのバリエーションが500着くらい並んでいた。「今、この世界はものすごいスピードで変化しています」というナレーションが風景に重ねられた。そのナレーションは少し唐突で、私は膨張していく宇宙について考えて、この声は宇宙がこの先どのように変化をしていくのか教えてくれるのだと思って、続きを待った。その声は、「でも、クリスマスのこの時期に、大切な人を思う気持ちはいつの時代も変わりません」と言った。私はがっかりした。クリスマスギフトの宣伝だったのである。それと同時に、なぜか視界が明るくなった。今まで私は眠っていて、このナレーションが目覚まし時計だったとでもいうように、私は急に「起きた」感じがした。
どのくらいの長さか正確には覚えていないけど、私はこの数年間、自分の内面生活を外に漏らさないように注意を払ってきたように思う。もちろん家族や仲の良い友達を除いて、だけれど、私はなるべく自分の感情や自分の表面を綺麗にツルツルに磨いてから提出していたような気がする。どこに提出するかって? 私の外側に広がる外部に、である。(それを世界、と呼んでしまっていいのか、判断がつかない)私は自分に生まれた感情やイメージをなるべく漏らさず貯め込んで、それを作品にぶちこみたいと思っていたのだ。作品に注ぎ込むためのそのような要素たちが、ブログやツイッターやフェイスブックに書くことで消え去ったり薄まったりすることを恐れていたのだ。それにそのような要素たちの輪郭を言語化することも避けていた。いろんな要素を脈絡なくひとつの鍋に放り込んで、謎のディップを作りたかったのだ。そのディップにアイディアの種を入れてしばらく置いておくと、発酵して全然違うものに変化してしまうような液体が欲しかったのだ。その中では感情、イメージ、匂い、手触りの記憶がぐちゃぐちゃに混ざっている。

でも、今、私はちょっと考えをあらためている。Hey, girls. 記憶はどんどん薄れていくよ。
私は32才になった。近ごろ、感覚が若い頃よりも若干鋭敏でない、言い方を変えればまろやかになっているのを感じる。ナイフが突き刺さったとしても、ナイフは昔ほど鋭利ではなくなった。切り傷というよりは打撲が増えた。母は祖母の物忘れがひどいとぼやき、当の母も最近人の名前が思い出せない、という。そして、実は私もなのだ。記憶力がどんどん退化している。(iphoneが原因じゃないかと密かに睨んでいる。iphoneがあるから、人との約束の時間を覚えなくなった。次にどの電車に乗るのかも覚えない。電話番号ももちろん覚えないし、なんなら人の名前を漢字でどうやって書くのかも覚えない!そのような細々した情報は外付けハードディスクであるiphoneに入れているのだ)そして私は思った。書き留めていないものは忘れる。そして忘れられたものというのは、この世に存在しないものなのだ。忘れるイコール消えるである。私がいくら今この瞬間、飛行機が寝静まり、薄青い照明に照らされる天井の質感やカーブが美しいと思ったとしても、それを書きとめなかったら、その感情はこの世から消える。謎のディップに入るという保証もない。
恐ろしいのは、10年後の私は、もう薄青い照明に照らされる天井が美しいなどと思わなくなるかもしれない、ということなのである。いや1年後ですら、わからない。私は照明が薄青いことにすら気づかなくなるかもしれない。天井がカーブしていることすら、表面が滑らかな質感であることすら全く気がつかなくなっているかもしれないのである。そこに天井がある、ということは気がつかない場合には気がつかないのである。いつのまにかそうなっていたとしたら、謎のディップも知らず知らず栄養価の低いものになっているだろう。作家として、それでは困るのである。
人の一生は思いのほか短く、作家としての生命も個人差はあるにせよ、そこまでは長くないのである。

私は文章を書くことにする。それはエッセイのようなメモのようなものだろう。というか、エッセイであり、メモだ。

2016.08.27

引っ越し

いよいよこの部屋ともお別れ。ありがとう。ここでたくさん編集したよ。

2016.08.27

「新しい愛の体験」レビュー

中尾拓哉さんが先月の美術手帖に書いてくださった「新しい愛の体験」のレビューがWebで読めるようになりました。
繊細なレビューです。ぜひ読んでみてください。
http://bitecho.me/2016/08/22_1086.html

2016.08.27

「わたしの穴 美術の穴」関連書籍ブックフェア @NADiff


8月28日からNADiff a/p/a/r/tで『わたしの穴 美術の穴』関連企画 BOOKFAIR「1970年の穴から現在を覗く」が開催されます。
それぞれが展覧会や作品に関連する本を選びました。私は何を選んだかというと、ボラーニョの『野生の探偵たち』と『第三帝国』でございます(´ー `)

展覧会の呼びかけ人だった石井さんが展覧会のあとに冊子を作りたいと言い出し、その石井さんとのSkypeでの会話からボラーニョをテーマにした『遠いデュエット』のアイデアが浮かんだり、そのあと『野生の探偵たち』を翻訳された柳原さんがたまたま『遠いデュエット』を観て、『第三帝国』の訳者あとがきにそのことを書いてくださったり、と、この「穴」にまつわる展覧会からはたくさんの予期しない出来事が生まれました。
そもそも石井さんから「穴」について何か考えたい、と言われたとき一番最初に思い浮かんだのがボラーニョのことだったのです。展覧会のときにはうまく消化できず、直接的に作品には結びつかなかったのですが、それがこのような形で繋がっていくとは思いませんでした。
今思い返してみても、この展覧会の成り立ちや動機は結構謎に包まれていて、ほかの参加者と何度話しても、「で、結局なんだったんだろうね?」とみんなイマイチわかっていないのです。
それこそが「穴」の捉えどころのなさなのだ、と言い切ってしまっていいのかよく分かりません。
ブックフェアは約1ヶ月間やっているそうなので、遊びにきてください。私も行きます。そして、関連書籍とともに、『わたしの穴 美術の穴』の冊子を眺めてみてください。独特の手作り感と、どこを掘ってるんだね?感があるかと思います。
この冊子には、すでにレア本のオーラをまとったインディペンデント感があり、うちに冊子の在庫が詰まった段ボール箱があるのですが、横目で見るとそこだけ重力磁場が歪んでいるように感じます。(嘘ですけど)

上に載せた写真は、榎倉康二、高山登、藤井博、羽生真が1970年に行った「SPACE TOTSUKA ’70」という展覧会を調査したときのもので、頭を掻いている桝田さんが金田一耕助みたいで面白かったので載せてみました。

http://www.nadiff.com/?p=2796

2016.07.10

選挙当日。

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