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2017.01.11

2016年12月10日(土)22:20

2016年12月10日(土)22:20

私は今、カタール航空の飛行機に乗っている。ドーハで乗り継ぎをし、夫がいるパリに向かう。夫と会うのは3ヶ月ぶりだ。空港まで迎えに来て、と頼んだら、彼は空港まで迎えに来てくれるという。そんなの当たり前だと思うかもしれないけど、私はそのことに対して若干の驚きとともに感謝をしている。私は遠慮深いところがあるのだ。彼が飛行機の便名と、何時にドーハを出発するのか知りたいというので、暗号みたいなEチケットの写真をメールした。これを解読できるのだろうか。彼は全然問題ないという。何があるかわからないから情報は全部知っておいたほうがいいんだ、という。カタールで何かあったときのために、と。カタールで何かあるなんて縁起でもないこと言わないでよと言った。心配しなくてもきっと時間通りに着くでしょ、と答える。
2016年はもうすぐ終わる。去年の年末に2016年の抱負を考えただろうか? 私はたしか、「英語の上達」と「海外に行く」というのを抱負にしたような気がする。「海外に行く」なんて16才みたいな願望だけど、そうなのだ。 日本から出て、別の環境に身を置くことを去年の私はものすごく欲していたのだ。
今年はタイとアメリカに行き、これからフランスに行く。「海外に行く」という抱負は実現した。

来年の抱負について考えよう。私はなんとなく文章を書き始めたいと思った。それを思いついたのは新宿のデパートのブラックフォーマル売場(喪服を売っている場所)でバイトしている最中、カウンターで、ぼんやりと客のまばらな店内を眺めていたときだった。視界の右側にはお歳暮の催事コーナーがあって、視界の左側には上下黒のツーピースのいくつかのバリエーションが500着くらい並んでいた。「今、この世界はものすごいスピードで変化しています」というナレーションが風景に重ねられた。そのナレーションは少し唐突で、私は膨張していく宇宙について考えて、この声は宇宙がこの先どのように変化をしていくのか教えてくれるのだと思って、続きを待った。その声は、「でも、クリスマスのこの時期に、大切な人を思う気持ちはいつの時代も変わりません」と言った。私はがっかりした。クリスマスギフトの宣伝だったのである。それと同時に、なぜか視界が明るくなった。今まで私は眠っていて、このナレーションが目覚まし時計だったとでもいうように、私は急に「起きた」感じがした。
どのくらいの長さか正確には覚えていないけど、私はこの数年間、自分の内面生活を外に漏らさないように注意を払ってきたように思う。もちろん家族や仲の良い友達を除いて、だけれど、私はなるべく自分の感情や自分の表面を綺麗にツルツルに磨いてから提出していたような気がする。どこに提出するかって? 私の外側に広がる外部に、である。(それを世界、と呼んでしまっていいのか、判断がつかない)私は自分に生まれた感情やイメージをなるべく漏らさず貯め込んで、それを作品にぶちこみたいと思っていたのだ。作品に注ぎ込むためのそのような要素たちが、ブログやツイッターやフェイスブックに書くことで消え去ったり薄まったりすることを恐れていたのだ。それにそのような要素たちの輪郭を言語化することも避けていた。いろんな要素を脈絡なくひとつの鍋に放り込んで、謎のディップを作りたかったのだ。そのディップにアイディアの種を入れてしばらく置いておくと、発酵して全然違うものに変化してしまうような液体が欲しかったのだ。その中では感情、イメージ、匂い、手触りの記憶がぐちゃぐちゃに混ざっている。

でも、今、私はちょっと考えをあらためている。Hey, girls. 記憶はどんどん薄れていくよ。
私は32才になった。近ごろ、感覚が若い頃よりも若干鋭敏でない、言い方を変えればまろやかになっているのを感じる。ナイフが突き刺さったとしても、ナイフは昔ほど鋭利ではなくなった。切り傷というよりは打撲が増えた。母は祖母の物忘れがひどいとぼやき、当の母も最近人の名前が思い出せない、という。そして、実は私もなのだ。記憶力がどんどん退化している。(iphoneが原因じゃないかと密かに睨んでいる。iphoneがあるから、人との約束の時間を覚えなくなった。次にどの電車に乗るのかも覚えない。電話番号ももちろん覚えないし、なんなら人の名前を漢字でどうやって書くのかも覚えない!そのような細々した情報は外付けハードディスクであるiphoneに入れているのだ)そして私は思った。書き留めていないものは忘れる。そして忘れられたものというのは、この世に存在しないものなのだ。忘れるイコール消えるである。私がいくら今この瞬間、飛行機が寝静まり、薄青い照明に照らされる天井の質感やカーブが美しいと思ったとしても、それを書きとめなかったら、その感情はこの世から消える。謎のディップに入るという保証もない。
恐ろしいのは、10年後の私は、もう薄青い照明に照らされる天井が美しいなどと思わなくなるかもしれない、ということなのである。いや1年後ですら、わからない。私は照明が薄青いことにすら気づかなくなるかもしれない。天井がカーブしていることすら、表面が滑らかな質感であることすら全く気がつかなくなっているかもしれないのである。そこに天井がある、ということは気がつかない場合には気がつかないのである。いつのまにかそうなっていたとしたら、謎のディップも知らず知らず栄養価の低いものになっているだろう。作家として、それでは困るのである。
人の一生は思いのほか短く、作家としての生命も個人差はあるにせよ、そこまでは長くないのである。

私は文章を書くことにする。それはエッセイのようなメモのようなものだろう。というか、エッセイであり、メモだ。

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